うちのふうふとエイトのこと。

黒トイプーのエイトや車。ふうふの日常について。

にんじん。

癖の強い赤毛で雀斑だらけのルピック家第三子フランソワは、家族からにんじんと呼ばれ、須く底意地の悪い扱いをされているー。初読後、気持ちの折り合いが付かずにうろうろと居住まいが定まらなかったことを覚えています。にんじんが兄のフェリックスにまんまと瞞され、苜蓿を食べたせいでむかつく胸を抱えているようでした。読んだのは岩波文庫版、岸田国士の訳出です。岩波の特徴的な書体と蒼然とした文体が、層一層だんなの子供ごころを重くしたのかも知れません。

近間の書肆で新潮文庫版が目に留まり、再読してみようと贖いました。訳者は高野優。冒頭部分を読み比べてみます。

岸田版「ルピック夫人はいうー 『ははあ…オノリイヌは、きっとまた鶏小舎の戸を閉めるのを忘れたね』 その通りだ。窓から見ればちゃんとわかるのである。」

高野版「ある晩のこと、お母さんが窓から外を見て言った。『あら、にわとり小屋の扉が開いているわ。きっとオノリーヌが閉めわすれたのね』」

大分印象が違います。高野氏はあとがきで「最初に抱いたのは、『にんじんはかわいそうだ』という率直な感想だった。」と主人公に深く思いを寄せ、作為を持って「翻訳ではまず、虐待を受けたにんじんの悲しみが伝わるような訳し方をした。(中略)全体ににんじんの視点にし、そのため『ルピック氏』、『ルピック夫人』を『お父さん』、『お母さん』と訳した。」のです。

個人的意見ですと、岸田訳がより心に落ちます。戯曲的な言い回しは横に置くとして、客観的で冷淡としている。傍目八目の譬えの通り、にんじんの心の動きを整理しやすいと思うのです。

原文も読めぬ分限で、烏滸がましいこと目も当てられない。伊丹十三は「再び女たちよ!」の中で、辞書を頼らず3冊も原書を読めば自ずと理解力が身につく、と撰述しています。ならば立ち掛かる臍を固めるなぞと莫迦な考えを起こしちゃいけない。仏蘭西なんて高等品には西洋式小刀や肉叉を手に向かっても、歯が立つ道理がありません。にんじんの花言葉と同じ、「幼い夢」というものです。