うちのふうふとエイトのこと。

黒トイプーのエイトや車。ふうふの日常について。

贅沢は素敵だ。

 

昨年の東洋経済に、哲学者國分功一郎氏のインタビュー記事が掲載されていました。SNS上の言論空間につての議論が中心ですが、だんなが興味深く読んだ部分を引用します。

メジャーな価値観に基づく正論によって批判されうる意見が、どこまでも排除される。その傾向が以前よりも強まった。(中略)外食産業や夜の街がコロナ禍で窮地に追いやられたこととも関係するように思う。それらの業態は確かに「不要不急」だったかもしれない。しかしそこには、余計だからこそ生まれる豊かさや人を救う力があった。多様性を受け止めていたそれらは、コロナ禍で真っ先に切り捨てられた。

不要不急でないものとは何か。余計とは何か。國分氏は著書「暇と退屈の倫理学」で詳細に議論されています。脳の軽いだんなでは凡てを考察できないので、過程を中抜きして申し訳ありませんが、不要不急で余計なものを「浪費」と定義して考えてみます。

浪費とは何か?浪費とは必要を超えてものを受け取ること、吸収することである。必要のないもの、使い切れないものが浪費の前提である。

浪費は必要を超えた支出であるから、贅沢の条件である。そして贅沢は豊かな生活に欠かせない。(國分功一郎「暇と退屈の倫理学」)

成る程、無駄遣いは良くないと耳に胼胝が出来るほど聞かされてきましたが、たまには贅沢もしたいですよね。いつも必要最低限のものしか持たず、質素な食事ばかりでは心が枯れてしまいます。一方で浪費癖がついてしまい、奢侈に流れて家計が破綻しては身も蓋もありません。しかし迷えるだんなに救いの光が。

浪費は満足をもたらす。理由は簡単だ。物を受け取ること、吸収することには限界があるからである。身体的な限界を超えて食物を食べることはできないし、一度にたくさんの服を着ることもできない。つまり、浪費はどこかで限界に達する。そしてストップする。(前同)

だんなの浪費癖にも衝突被害軽減制動装置が標準装備されていたとは、何たる僥倖。とは謂え、本当に斯様な先進機能が搭載されているのかしらん。ちと心配なので、ボードリヤールの「消費社会の神話と構造」を再読しました。

豊かさがひとつの価値となるためには、十分な豊かさではなくてあり余る豊かさが存在しなければならず、必要と余分とのあいだの重要な差違が維持されなければならない。これがあらゆるレベルでの浪費の機能である。浪費を解消したり取り除いたりできると思うのは幻想にすぎない。

何だか雲行きが怪しいのでは、と危ぶみましたが、國分氏も浪費を排除できるとは謂っていません。浪費は「どこかでストップできる」のです。故に豊かに生きるためには贅沢をしなければならず、そうして豊かに生きる人たちが、人を救う力を持った社会構造を産生維持する。浪費をして、贅沢に満ち足りて、豊かさを持った社会こそが多様性を支持できるのでしょう。

さらに國分氏は浪費と消費の違いについて論を展げていきます。浪費にはある限界が、消費には無い。ために、我々は消費することを止められない。なぜでしょうか。興味を持たれた方は是非「暇と退屈の倫理学」を読んでみて下さい。重複や手戻りが無く、文章も明解なのでとても読みやすいです。唯一の欠点は、読了後「宿題図書」の目録が膨大になることです。いや、これも國分氏の意図かも識れません。

日本の読者賞は非常に分厚くて、フランスだったら500冊しか売れないような哲学書が、日本では数千冊、数万冊売れることもある。読書において人はじっくり考えることができる。今の日本でもまだまだ期待できる分野だ。

さっそく明日は書店に行って、きっちり浪費してくることにします。

 

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