うちのふうふとエイトのこと。

黒トイプーのエイトや車。ふうふの日常について。

先送りの免罪符は何時まで持続可能なのか。

 

斎藤幸平氏の「人新世の『資本論』を読みました。人新世の定義は本書によると、

人類の経済活動が地球に与えた影響が余りに大きいため、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツエンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、其れを「人新世」と名付けた。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味である。

とされています。

SDGs、所謂「持続可能な開発目標」は資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる「大衆のアヘン」であり、気候変動による地球の危機は取り返しのつかない時限を迎えようとしている。カール・マルクスの「資本論」と晩年の思想を参照しながら、気候危機による地球と人類の毀損を回避を探る分析が本書の主旨です。導出される解は、明確に収束された論なので、本記事では触れないことにします。

読み手が、資本論の膨大な情報量と本書を対照するのは非常に骨が折れますし、マルクスの思索については丁寧に縷説されているので、資本論を識らずとも何ら問題ありません。だんなも識りませんでしたし。

個人的な意見ですが、ジャン・ボードリヤールの「消費社会の神話と構造」と対比して読むと興味深いのでは、と思いました。これ宿題なんですけれども。まあ、脳の軽いだんなはよく理会できていませんので、喩えば本書の一節を引いてみますと、

人々を無限の労働に駆り立てたら、大量の商品ができる。だから今度は、人々を無限の消費に駆り立てねばならない。無限の消費に駆り立てるひとつの方法が、ブランド化だ。広告はロゴやブランドイメージに特別な意味を付与し、人々に必要ないものに本来の価値以上の値段をつけて買わせようとするのである。その結果、実質的な「使用価値」(有用性)にはまったく違いのない商品に、ブランド化に酔って新規性が付け加えられていく。(中略)これこそ、似たような商品が必要以上に溢れている時代に、希少性を人工的に生み出す方法である。

とあります。ボードリヤールは、

消費社会が存在するためにはモノが必要である。もっと正確にいえばモノの破壊が必要である。モノの「使用」はその緩慢な消耗を招くだけだが、急激な消耗において創造される価値ははるかに大きなものとなる。(中略)現代の日常生活では、多くの場合、消費は導かれた消費性として、生産性の命令に服従している。それゆえ、ほとんどの場合、モノは場ちがいに存在しているので、モノの豊かさ自体が逆説的ではあるが貧しさを意味している。

と撰述しています。両書を対比しながら理会を深めたい論点は数多あり、付箋が鈴生りになってしまいました。年末年始に再読したいと思います。

気候変動に警鐘を鳴らし、独自の資本論解釈により人類と自然の絡み合いを解いて示している良書ですが、中盤以降論述が重複し、ためにやや冗長に感じ読過の歩度が伸びませんでした。だんなの読解力が足りないだけかも識れませんが。