うちのふうふとエイトのこと。

黒トイプーのエイトや車。ふうふの日常について。

いまこそ、希望を。

 

アキレスと亀の背理とは「走ることの最も遅いものですら最も速いものによって決して追い着かれないであろう。なぜなら、追うものは、追いつく以前に、逃げるものが走りはじめた点に着かなければならず、したがって、より遅いものは常にいくらかずっと先んじていより遅いものは常にいくらかずっと先んじていなければならないからである。」という江湖によく知られる議論です。足の速いアキレスも先を行く牛歩の亀には追いつけない。空間と時間を無限に細分化することを前提とした論調で、数学的には容易に論破せしめるとされています。脳の軽いだんなには重い議題ですが、哲学的な提示を数学的に解題したとて、理会したと謂えるのでしょうか。

20世紀最大の知識人、哲学者とされるジャン=ポール・サルトル仏蘭西の哲学者であり、自身の秘書であったベニィ・レヴィとの対談を纏めた「いまこそ、希望を」。この時、知の巨人と謂われ様様な思想、政治的な影響力を発揮したサルトルも最晩年にあり、視力も失っています。サルトルに正面から対峙し、寧ろ哲学的論理の誤謬を容赦なく糾すレヴィの知力も凄まじく、サルトルに近しい支持者はこの対談の明文化に挙って反対したそうですが、サルトル自身の意向により出稿され、現在までに読み継がれています。

この対談で、サルトルは「希望」、「友愛」と謂う語彙を頻繁に発言しています。レヴィの指摘を受けて、一部の過去の思想を修正、訂正しながらも、結句自身の哲学を未来に恃む。だんなの理会が到達した限界です。

老いて視力も失ったサルトルの言葉。「いつか勃発するかもしれない第三次世界大戦。地球というこの悲惨な集合体、こんなことで、絶望が私を誘惑しに戻ってくる。いつまでたってもきりはない。(中略)とにかく、世界は醜く、不正で、希望がないように見える。といったことが、こうした世界のなかで死のうとしている老人の、静かな絶望さ。だが、まさしくね、わたしはこれに抵抗し、自分ではわかってるのだが、希望のなかで死んでいくだろう。」そして、「友愛は、けっきょくのところ未来にあるからだ。」

過去に経験のない、様様な危難に向かうにはどうしたらいいのでしょう。哲学に恃む訳ではありませんが、バートランド・ラッセルは哲学入門で述べています。「哲学は、望まれているほど多くの問いに答えられないとしても、問いを立てる力は持っている。そして問いを立てることで、世界に対する興味をかきたて、日々の生活のごくごくありふれたもののすぐ裏側に、不可思議と驚異が潜んでいることを示すのである。」一時は革命の実として暴力にすら肯定的であったサルトルが、思索を重ねて辿り着いた友愛。「人間の実存は本質の先に立つ」。何年費やすかわかりませんが、この言葉を少しでも深く理会するために、遅遅とした亀の歩みでも、日日問いを立てたいと思います。