うちのふうふとエイトのこと。

黒トイプーのエイトや車。ふうふの日常について。

省察するエイト。

 

《この記事は主エイトが忠僕であるだんなに話をしながら、アンディ・ウォーホルの『ブリロ・ボックス』についての考えを整理している、と謂う体で書いています。》

 

ふむ、何やら鳥取県が購入した美術作品が物議を醸しておるようであるな。忠僕もポップアートの巨匠アンディ・ウォーホルの名前くらいは聞いたことがあるだろう。該作品は、合成洗剤を含んだ食器洗い用のスチールウール、ブリロの箱を合板とシルクスクリーンで精緻に複製したものだ。今回購入した5点の内、1点がウォーホル本人の手によるもので、他は公認されたレプリカだそうな。複製の複製とはややこやしいよのう。

亜米利加が高度経済成長期にあり、大量生産と大量消費を繰り返す時代に「ブリロ・ボックス」は世に問われた。批評家のアーサー・C・ダントーは「芸術の終焉」と謂う応えを返している。既に商標化された消費財の複製は芸術なのか。ダントーは、「作品が求めているものや問いかけている意味」乃ち哲学的な背景や作者の意図があると謂うことが芸術としての立脚点と定義しているようだ。ウォーホル自身は如何様に考えておったのであろうな。彼の有名な言では斯様にある。

私の絵と映画と私の表面だけを見れば、私の全てを識ることが出来る。内面には何もありません。

むう。字面通りに理会すべきか、鑑賞する側が試されていると捉えるべきか。ダントーの論を恃むとしようか。譬えば、或る者が極めて崇高な哲学と明確な意図を持って、スーパーマーケットで購入した「本物の」ブリロの箱を美術館に展示したとしたら、其れは芸術なのであろうか。何時も頭の軽い忠僕とばかり話している所為か、考えが纏まらぬ。ひとつ思うのは、ポップアートが大衆による消費に主題を置いているのであれば、矢張り亜米利加にあってこそ正当な評価を受け得るのではないか。エリック・ホッファーの「現代という時代の気質」から引いてみよう。

事実、アメリカは大衆が社会全体に彼らの趣味や価値観を押しつけた唯一の国である。アメリカ以外のどこででも、有史以来社会は貴族、書記、実業家、修道院内外の教団などの排他的少数者によって形成されてきた。アメリカにおいてのみ大衆は彼らをこづきまわす親方もなしに、自力でできることを示す機会を得たのであり、しかも彼らにその機会を与えるには新世界の発見が必要だった。だが、現在のアメリカでは大衆は退場しようとしている。オートメーションの到来に伴い、一般人の九十パーセントが不要で役たたずの存在になろうとしているのだ。

高度経済成長期のアメリカでは、大衆が総意を得ていたのだ。ウォーホルはアメリカの一種特異な大衆に食い込んだのだ。自ら「機械でありたい」と謂っていた芸術家は、シルクスクリーンや職人による複製を数多生み出した。オートメーションが大衆を役たたずにするのを逆手に、彼の作品は尚必要とされ「大量消費」されたことは間違いない。「日本では馴染みがない」と謂う反対意見もあるそうだが、ウォーホル作品の売上総額は、ピカソの其れをも凌駕しているのだから。しかし、吾が国の同調圧力を伴う総論では、矢張り支えられないのやも識れぬな。

こら、亦た寝ておるのか。莫迦者。

 

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