うちのふうふとエイトのこと。

黒トイプーのエイトや車。ふうふの日常について。

他者の他者性。

 

 昨日の記事で触れたharu氏の著作「ぼくが13人の人生を生きるには身体がたりない。」についてもう少し。

 著者は解離性同一性障害以外に性同一性障害発達障害と様様な「生きづらさ」を抱えています。生きづらさを感じるのは何故でしょう。巻末に解説を寄せている岡野憲一郎氏によれば「解離性障害についtの理解が以前よりは格段に進んだとはいえ、いまだに専門家の間でさえ誤解や曲解を受ける傾向にある。場合によってはそれを詐病や演技と同列に扱う人も存在する」そうです。

 生きづらさや痛みは他人には理会出来ません。コギト・エルゴ・スム。我思う、故に我あり。凡てを疑うことから立ち掛かったデカルトは、考えると謂う属性があるならば、其の考える行為が帰属する自我が存在しなければならないと考えました。haru氏には主人格と12の交代人格があり、当然のように各各が別別に考えている。自我と他我が共存している。そして相互に他我を疎かにしていない。

 生きづらい世知辛い世の中で、みな種種悩んで考えている。悩んでいることは他我の存在証明であり、悩みに寄り添うことは自我の存在意義なんだなあ、なぞ革めて考えました。デカルト先生、間違ってますでしょうか。