うちのふうふとエイトのこと。

黒トイプーのエイトや車。ふうふの日常について。

合衆国憲法修正第二条。

 

「国民が武器を保有し携行する権利は侵してはならない」。ために亜米利加社会には広く深く銃が浸透しています。憲法に裏打ちされているのですから、個人の既得権益と謂っても間違いではないでしょう。銃の乱射事件は後を絶ちませんが、規制に進む世論が尻に帆立てて醸成されている様には思えません。難しいのは段階的な規制が強者と弱者、則ち不平等を生み社会構造を歪めてしまうことです。加うるに奴隷制度を維持するための必要悪としての役割を担った等の歴史背景により、銃は社会構造の維持に不可欠な重器になっています。殊に貧富の格差が大きい亜米利加では、火器が個個人の独立性を担保しているとも考えられ、持つ者と持たざる者に分別されてしまうと不平等の構造がより複雑化し、個人の心裡と社会の不安定化を急速に拡大する懸念があります。

スタインベックの「ハツカネズミと人間」。主人公である二人の労働者はカリフォルニアの農場を転転としながら、いつか「一軒の小さな家と農場を持ち、土地のくれるいちばんいいものを食べ、ウサギを飼って静かに暮らす」と謂うささやかな夢の実現のために働きます。原題の Of Mice and Men はスコットランドの詩人ロバート・バーンズの詩「ネズミに寄せて」から得たものだそうです。該詩の第七節は、小説の概略と謂っても良いでしょう。

だがねずみよ 不確かな未来はお前にとってだけではない

人間とねずみの立場がいつ逆転しないとも限らない

人間もまた喜びを砕かれ、悲嘆と苦痛にさいなまれよう

人生を「いっしょに歩いている」ジョージとレニー。レニーはハツカネズミを捕まえてポケットに入れてはかわいがります。レニーは大力を持つ大男ですが、力の入れ具合を加減できません。ために、悉くハツカネズミを死なせてしまいます。新しく働き始めた農場でもらった子イヌも。レニーの力は意図せず、取り返しのつかない悲劇の元凶となってしまいます。子供みたいで何の悪気もない、ただ力が強いだけのレニーといっしょに歩いてきたジョージにも助ける手立てはありません。ジョージは、レニーが受けることになる苦痛を取り除くための決断をします。

そしてジョージは拳銃を上げ、しっかりとかまえてから、銃口をレニーの後頭部に近づけた。手が激しく震えたが、ジョージは厳しい顔をして手を落ち着けた。引き金を引く。銃声が山を駆けのぼって、ふたたび駆けおりる。

「ハツカネズミと人間」は1930年代、世界恐慌と農業不況の二重苦に苛まれている亜米利加が舞台です。だんなには時代背景を読み解き理会することはできませんが、ジョージの行動は当時の世情を鑑みても道徳的に決して許されないでしょう。一方で、道徳的な選択肢とは何か、と謂う問いに対しては、どう回答すべきなのでしょうか。

マイケル・サンデルは「これからの『正義』の話をしよう」で述べています。

人生を生きるのはある程度のまとまりと首尾一貫性を指向する探求の物語を演じることだ。分れ道に差しかかれば、どちらの道が自分の人生全体と自分の関心事にとって意味があるかを見きわめようとする。道徳的熟慮とは、みずからの意志を実現することではなく、みずからの人生の物語を解釈することだ。そこには選択が含まれるが、選択とはそうした解釈から生まれるもので、意志が支配する行為ではない。

レニーは「自分では何も考えつかないが、言われたことはできる」。みずからの意志に支配されたことがないとすれば、人生の物語を「レニーなりに」解釈していたのでしょう。残念ながら、それらが道徳的熟慮にたった結果には繋がりませんでした。

ジョージはどうでしょう。夢が潰えたことで、人生の物語を解釈することを放棄してしまったとすれば、同時に道徳的熟慮も放棄したことになります。物語の結末が、意志に支配された結果だったとするなら、とても悲しく、胸を刺します。