うちのふうふとエイトのこと。

黒トイプーのエイトや車。ふうふの日常について。

十三と千。

 

石田千さんの「箸もてば」。なんとも嫋やかな麗筆で、めし、さけ、おかずの湯気や芳気がふうわりとして芬芬と漂ってくるようです。いずれも美味しそうが詰まった掌編なのですが、格別興味を抱いたのはきゅうりサンド。

きのうの晩は、あげものとポテトサラダを食べた。はさむつもりだったトマトは、酔っぱらって、まるかじりして、腹のなかにある。それで、きょうは、きゅうりサンドとなった。

トーストは、ちょっと焦げたほうが好きで、網で焼く。ごく弱火、片面一分。塗るのはマヨネーズとマスタード

塩玉ねぎをのっけて、きゅうりを包丁で削ぐ。レタスは、百万円の札束ほどはさむ。自家製は、レタスを存分にはさめてうれしい。またパンをのせて、手のひらで、ぎゅう。

そっとつかみ、じっと見て、いただきます。

がぶり、さくり。りっぱな歯形がついた。

ぎゅう、がぶり、さくり。ぐぐう、失礼、これはだんなの腹の虫です。読後に聯想したのが、伊丹十三の著作「女たちよ!」に所収されている「キューカンバー・サンドウィッチ」でした。きゅうりサンドとはだいぶ結構が異なります。

ところで、このキューカンバー・サンドウィッチであるが、これは実にけちくさく、粗末な食べ物でありながら、妙においしいところがある。

胡瓜のサンドウィッチというと、みなさん、胡瓜を薄く切って、マヨネーズをつけてパンにはさむとお考えだろう。違うんだなあ、これが。マヨネーズなんか使うのはイギリス的じゃないんだよ。

マヨネーズじゃなくて、バターと塩、こうこなくちゃいけない。パンは食パン、このサンドウィッチに限り、パンがおいしい必要は少しもない。イギリスや日本のあのオートメイションで作られた、味もそっけもない食パンというやつ、あれでよろしい。この食パンをうんと薄く切り、耳は落してしまう。これにバターを塗りつけ、薄く切った胡瓜を並べ、塩を軽く振って、いま一枚のパンで蓋をする。これを一口で食べやすい大きさに切って出す。

こちらは、ぱくり、はむ、しゃく、といった感じでしょうか。食べ物の思い出は五感とともに心に残ります。見付き、味、匂い、音、手当たり。ひとつひとつ懐かしい。

今日は母の月命日です。おくさんが母が好んで食べていた朝食を料って、仏壇に供えてくれました。トーストとコーヒーの薫りが母の思い出を運んできます。

最後に「箸もてば」のあとがきから抜萃します。

箸もてば、いつかの夕方、いつかの乾杯。

ひとくちめのビールが喉もとすぎる。会えなくなったひとにも会える。

ほんとうに。

 

秋彼岸や朝餉は冷凍の麺麭