うちのふうふとエイトのこと。

黒トイプーのエイトや車。ふうふの日常について。

ケ セラ セラ。

 

1956年に公開されたアルフレッド・ヒッチコック監督作品「知りすぎていた男」の挿入曲で、第29回アカデミー賞歌曲賞を授賞された声楽「ケセラセラ」。劇中終盤では母親が放歌高唱し、誘拐された息子を救出する端緒となる重要な役向きを担った隠れもない名曲です。

 

仏蘭西第二帝政期の社会と人間の生活を描き尽くすことを企図して、エミール・ゾラが著わした「ルーゴン・マッカール叢書」。環境と遺伝そして時代背景の因由による人間究明の試みで、1,200人が登場する全20巻の第7作目である「居酒屋」における主人公は洗濯女ジェルヴェーズです。彼女は生来足が悪く、父親の暴力に耐えて幼少期を過ごし、10代の前半で母親になると、子供とともに帽子屋の情夫に棄てられます。ブリキ職人のクーポーと結婚してからは仕事と育児に明け暮れ、束の間幸福を得ますが、夫が仕事中に屋根から転落し大怪我を負い、曾ての情夫帽子屋が家族を蚕食するようになると、生活は徐徐に力を失い凋落していきます。

居酒屋の初出は夕刊新聞の連載でしたが、数日を俟たずに「労働者階層の悲惨をえがいて、労働者階層を卑しめ中傷するものだ」として非難囂囂、ために完結を見ずに掲載休止となります。ジェルヴェーズの祖は狂人と酒の依存症中毒者です。依存症は遺伝すると信じていたゾラの意図を受け、彼女も酒に依存していきます。生活の貧窮、ために途絶する未来の恐怖から酒と貪食と乱倫を楯に逃げ惑い、軈て自ら死を請うようになる霞のように儚い生は、慥かに悲惨です。ゾラは江湖の批判を受けて、自認する「作家的意図」を披瀝しています。

わたしは、パリの場末の汚濁した環境のなかでの、ある労働者一家の避けることのできない転落を描こうとしたのである。酩酊と怠惰のすえに生れる家族関係の解体、卑猥な乱倫、誠実な感情の加速度的な忘却、そして、あげくのはての汚辱と死。これこそ、生きた教訓なのだ。それ以外のものではない。

本作の全てが此の隻言に凝縮されています。ジェルヴェーズには鋳掛の関係と生活を取り返す機宜も詮術も残されていました。であるのに「酩酊と怠惰」に囚われ、踏み堪える決意を深く穿つことが出来ずに走錨してしまいます。

あたしを意志の強い女と思っては間違い。逆に、とても弱い女なの。だれかを苦しめるのが嫌なばかりに、人の言うままになってきたの。あたしの夢はまっとうな世の中で暮らすことよ。

彼女の謂う暮らしとは、地道に働くこと、三度のパンを欠かさぬこと、寝るためのこざっぱりとした住居を持つことです。慎ましい夢を手に入れる為に「一生、へとへとになるまで働いて」から、「自分の家の自分の寝床で死にたい」。彼女の清潔な人生観は、商いの窮迫や、累積する借金、瘋癲の夫と家出する娘らによって駆逐され、ために自分の寝床で死ぬことは許されませんでした。

どれだけ機宜や方法に恵まれても、一度尾羽打ち枯らし淪落の淵に沈んだ身を引き上げるのは容易くはないでしょう。「苦役列車」のように降りられず、破滅に向かう単軌鉄道に乗り合わせたようなものだからです。

ケセラセラ、なるようになる。だんなの卑見ですが、此の歌詞は「ものごとは勝手にうまい具合に進む」ではなく、「未来は決まっていないから、自分でどうにでも拓いていける」という意味だと思っています。自分だけではなく、家族だけでもなく、出来うるだけ大きな社会の未来が拓けるように働き掛けたい。ジェルヴェーズの周囲は一組の隣人を除いて、人間を象った嫉妬と憎悪と怨嗟しか居ませんでした。精神と勇気の拠り所が存在しなかった。好循環の相互作用が生じる筈がない社会です。自己作用だけでは、拓けない未来がある。なるようになる未来が勝手にうまい具合に進んでいるとは限らないとするなら、美しい相互作用を拡げていきたい。

ゾラは科学的な検証や知見に肯定的で、近代科学の精神を取り入れた小説家とも謂われ、さらに科学の通底に必要なのは道徳である、との定見を持っていたようです。自分の居場所を守るには、礼節を守らなければならない。好もしい態度で、奥ゆかしい相互作用によって立脚した社会が、科学や芸術や文学を発展させた実例こそ、江戸の「いき」の構造です。

くだくだしい野暮はこの辺で。やあ、皆さん。感染対策を徹底して、少人数でちょっとその先の居酒屋で社会的相互作用ってやつを深掘りしようじゃあ、ありませんか。