うちのふうふとエイトのこと。

黒トイプーのエイトや車。ふうふの日常について。

韻文。

 

だんなは時折記事に五七五、十七音の定型詩を逼塞させています。俳句ではありません。聢と学んでおらず、規程の事解も浅薄だからです。心得ある方に「これは俳句にあらず」と指弾されれば一音の反句も持ちません。当然です。ですが「これは詩ではない」と高唱する輩には身命賭して論駁します。言葉を紡いだ者が規定すれば、それは論を待たずして詩だと思うからです。

1973年に放映開始された漫画動画「侍ジャイアンツ」。主人公番場蛮は読売巨人軍の投手で、少童の憧憬「魔球」を累次産生します。就中絶巧出色としたいのは分身魔球。格闘家から相伝された自然借力法(じねんしゃくりきほう)という技で硬球を握り潰し投球すると、弾性変形による軌道変化で打者の視覚に数多の写し身を認識させます。動画版の演出では、番場が渾身の力を振り絞り、握り潰した球を衆目に誇ります。心躍らせました。

梶原一騎氏原作の漫画では、著しく様相を違えています。抑、番場は分身魔球が野球規程に抵触する違反球であると誰よりも先に深く知悉しています。しかし心血注いだ魔球に命を与える為に、玉条の瑕瑾を衝きます。「ばれなければいい」。硬球を潰す奥義は一切開かれず、常態の投球動作を一糸乱さず審判や敵側の目を欺き、顔色一定に球を圧し拉き魔球を成立させます。一方で辛苦多大な投擲による負荷は大鉈で番場の命を削ぎ、終結の悲劇に収斂します。

俳句や野球のみならず脈脈と在る文化には、徒に門外漢が列座すべきではないのでしょう。正規を識り、命心を挺してこそ立ち成る。心を砕いた破戒だからこそ、表現や体現に宿る意図が粒立つと考えます。

多少の学は得なければと、偶さか近間の書店で購った長嶋有さんの「俳句は入門できる」。素晴らしい書題だと思います。「俳句入門」、とか自考する脳を廃棄した或いは木で鼻をこくったような書名は嫌厭しますが、こちらは秀逸至極。だんなにも俳道の門は見えていると思いますが、未だ踏み入る勇気はありません。もう少し自学を重ね、いつか耳目から遠く或いは江胡に気づかれぬように身を縮め頭を垂れて密かに門の隅を潜り教えを請いたい。それでも俳句は「入門できる」。だんなの様な拙い所見で俳句に向かう人間には、優しく背中を押されている気がします。

識るべきをしり、心得た表現をする。それはひとかたならぬ重い課題です。せめてこの身がもう一つあれば。どなたかだんなを握り潰して分身させては頂けないでしょうか。