ビスケットがひとつ。ポケットをたたくとビスケットはふたつ。
そんな不思議なポケットを、だんなも持っています。その名は「歯周ポケット」。類稀な自律性により自働で拡張を続けた結果、収納量は刮目相待する水準を遥かに凌駕しました。ドラ○もんの四次元ポケットに比肩するほどです。
残念ですが、夢が詰まったことはありません。
今日はおくさんは美容室へ。だんなとエイトはお留守番です。ん?おくさんに早く会いたいから、散歩がてらお迎えに行きたいの?よし、じゃあ行こうか。
もう少しで終わるみたいだから、一緒に俟とうね。ひとつ確認なんだけど、だんなの時にも迎えに来てくれるのかな。おや、なぜに目を逸らすのかしらん。
石田千さんの「箸もてば」。なんとも嫋やかな麗筆で、めし、さけ、おかずの湯気や芳気がふうわりとして芬芬と漂ってくるようです。いずれも美味しそうが詰まった掌編なのですが、格別興味を抱いたのはきゅうりサンド。
きのうの晩は、あげものとポテトサラダを食べた。はさむつもりだったトマトは、酔っぱらって、まるかじりして、腹のなかにある。それで、きょうは、きゅうりサンドとなった。
トーストは、ちょっと焦げたほうが好きで、網で焼く。ごく弱火、片面一分。塗るのはマヨネーズとマスタード。
塩玉ねぎをのっけて、きゅうりを包丁で削ぐ。レタスは、百万円の札束ほどはさむ。自家製は、レタスを存分にはさめてうれしい。またパンをのせて、手のひらで、ぎゅう。
そっとつかみ、じっと見て、いただきます。
がぶり、さくり。りっぱな歯形がついた。
ぎゅう、がぶり、さくり。ぐぐう、失礼、これはだんなの腹の虫です。読後に聯想したのが、伊丹十三の著作「女たちよ!」に所収されている「キューカンバー・サンドウィッチ」でした。きゅうりサンドとはだいぶ結構が異なります。
ところで、このキューカンバー・サンドウィッチであるが、これは実にけちくさく、粗末な食べ物でありながら、妙においしいところがある。
胡瓜のサンドウィッチというと、みなさん、胡瓜を薄く切って、マヨネーズをつけてパンにはさむとお考えだろう。違うんだなあ、これが。マヨネーズなんか使うのはイギリス的じゃないんだよ。
マヨネーズじゃなくて、バターと塩、こうこなくちゃいけない。パンは食パン、このサンドウィッチに限り、パンがおいしい必要は少しもない。イギリスや日本のあのオートメイションで作られた、味もそっけもない食パンというやつ、あれでよろしい。この食パンをうんと薄く切り、耳は落してしまう。これにバターを塗りつけ、薄く切った胡瓜を並べ、塩を軽く振って、いま一枚のパンで蓋をする。これを一口で食べやすい大きさに切って出す。
こちらは、ぱくり、はむ、しゃく、といった感じでしょうか。食べ物の思い出は五感とともに心に残ります。見付き、味、匂い、音、手当たり。ひとつひとつ懐かしい。
今日は母の月命日です。おくさんが母が好んで食べていた朝食を料って、仏壇に供えてくれました。トーストとコーヒーの薫りが母の思い出を運んできます。
最後に「箸もてば」のあとがきから抜萃します。
箸もてば、いつかの夕方、いつかの乾杯。
ひとくちめのビールが喉もとすぎる。会えなくなったひとにも会える。
ほんとうに。
秋彼岸や朝餉は冷凍の麺麭
40歳を過ぎた頃から、だんなは一日として絶えず立ち向かっている敵手がいます。その名は「加齢臭」。抑、30代以降に嗅がれる男性特有の臭いは加齢臭とは原因物質が異なります。ために、だんなは二つの因縁による鼻つまみ者となっているわけです。
臭いを臭いで隠蔽すると謂う謀計は、ともすれば己が身を陥穽に嵌める危殆を孕む諸刃の剣です。而して、溺れる者は藁をも掴む、苦しい時のポロ恃み、なのでした。現代の香水の祖は16世紀末に作られたと謂うのが定説ですが、紀元前3000年頃のエジプトでは木乃伊の産生に香料が欠かせなかったようです。魂が蘇り、再び肉体に生が宿った時に、臭かったら嫌ですものね。本来は防腐作用を企図したものですけれど、こうした香りは該時代には高貴なものとされていたようです。加齢臭の手枷足枷から放たれるには、どうしたらよいものか。木乃伊にならずともすむ術式を、日日索めて参る所存です。