うちのふうふとエイトのこと。

黒トイプーのエイトや車。ふうふの日常について。

翹望。

 

新型肺炎蔓延から2年超を俟ち、一片餉を賄う為に深大寺蕎麦屋を訪いました。4cスパイダーを駐車場に停め、そば守観音様を奉拝。

 

 

品書きを見るともなく。

 

 

お定まりの上天もりを大盛りでお願いします。

 

 

エイトは水腹で一時。焦点も合わず累々心苦しい。ふうふは腹くちくなり。

 

 

新型肺炎は未だ手仕舞いの意図窺えず。こういうくだくだしい記事を時をかわさず、思い悩まず書ける様になることを翹望しております。御馳走様でした。

 

 

佰。

 

2021年12月24日に開設してから本記事で100を数えます。ついぞ変わらず何の役目にも立ちませんくだくだしい記事ばかりに拘らず、191人の方が読者になって下さいました。本当に有り難うございます。これからも大した面白みも愛想もご用意出来ませんが、お運び頂けますと幸いです。

 

蟻が鯛なら芋虫ゃ鯨百足汽車なら蠅は鳥。

 

礼くらい素直に云えないもんかねえ。三つ子の魂百までというが、手前の様な凡百を指して三歳の翁百歳の童子ってんだ。愚者の百行より知者の居眠り、女房百日馬二十日。百丈の木に登って一丈の枝より落つるなんてことも言う。せえぜ気をしきしめるんだよ。

 

へえ、百も承知二百も合点。

これからもエイトとふうふをどうぞご贔屓に宜しくお願い致します。

 

韻文。

 

だんなは時折記事に五七五、十七音の定型詩を逼塞させています。俳句ではありません。聢と学んでおらず、規程の事解も浅薄だからです。心得ある方に「これは俳句にあらず」と指弾されれば一音の反句も持ちません。当然です。ですが「これは詩ではない」と高唱する輩には身命賭して論駁します。言葉を紡いだ者が規定すれば、それは論を待たずして詩だと思うからです。

1973年に放映開始された漫画動画「侍ジャイアンツ」。主人公番場蛮は読売巨人軍の投手で、少童の憧憬「魔球」を累次産生します。就中絶巧出色としたいのは分身魔球。格闘家から相伝された自然借力法(じねんしゃくりきほう)という技で硬球を握り潰し投球すると、弾性変形による軌道変化で打者の視覚に数多の写し身を認識させます。動画版の演出では、番場が渾身の力を振り絞り、握り潰した球を衆目に誇ります。心躍らせました。

梶原一騎氏原作の漫画では、著しく様相を違えています。抑、番場は分身魔球が野球規程に抵触する違反球であると誰よりも先に深く知悉しています。しかし心血注いだ魔球に命を与える為に、玉条の瑕瑾を衝きます。「ばれなければいい」。硬球を潰す奥義は一切開かれず、常態の投球動作を一糸乱さず審判や敵側の目を欺き、顔色一定に球を圧し拉き魔球を成立させます。一方で辛苦多大な投擲による負荷は大鉈で番場の命を削ぎ、終結の悲劇に収斂します。

俳句や野球のみならず脈脈と在る文化には、徒に門外漢が列座すべきではないのでしょう。正規を識り、命心を挺してこそ立ち成る。心を砕いた破戒だからこそ、表現や体現に宿る意図が粒立つと考えます。

多少の学は得なければと、偶さか近間の書店で購った長嶋有さんの「俳句は入門できる」。素晴らしい書題だと思います。「俳句入門」、とか自考する脳を廃棄した或いは木で鼻をこくったような書名は嫌厭しますが、こちらは秀逸至極。だんなにも俳道の門は見えていると思いますが、未だ踏み入る勇気はありません。もう少し自学を重ね、いつか耳目から遠く或いは江胡に気づかれぬように身を縮め頭を垂れて密かに門の隅を潜り教えを請いたい。それでも俳句は「入門できる」。だんなの様な拙い所見で俳句に向かう人間には、優しく背中を押されている気がします。

識るべきをしり、心得た表現をする。それはひとかたならぬ重い課題です。せめてこの身がもう一つあれば。どなたかだんなを握り潰して分身させては頂けないでしょうか。

 

 

 

雪花菜。

 

江湖では豆腐を作るとき大豆から豆乳を絞った後に残る絞り滓のことで、語源は「殻」に丁寧語の「御」をつけた女房詞。空木の花に似ている為、卯の花とも。生理的熱量が低く高蛋白で食物繊維を多く含む栄養的に優れた食品にも拘わらず、滓とは謂われのない譏りではありますまいか。

御馳走帖」の著者、好食家の内田百閒先生。40歳を過ぎてから太ってしまい、主治医から減食を慫慂されます。即断無理、没義道と抗論する百閒先生に対し、おからを食べなさいと悠揚たる物腰で諭す主治医。抑、体調恢復の為常日頃から先案じている医者の診断を「人の道に外れた惨いこと」と僻見するとは、不心得の極み。さうしてをゐて「ところが私はおからが好きなので、その命令はちつとも苦痛でない」と恣意的で、「おからはおからとして十分に食ひ、その上にふだんの御馳走は以前と変はりなく詰め込む」と堂々と不当利益を略取します。

4月26日は「よい風呂の日」だそうです。百閒先生は毎晩お膳につく前には必ず風呂に這入る。「風呂に立つ前に卯の花を注意深く小皿に取り分け、箸先で押さえて固く丸い小さな山にする。その上から酢を掛けておいてから風呂に這入る。風呂にゐる内に酢が馴れて、おからの肌との間に調和が成り立つ」と先ほどの沙汰識らずが夢幻の繊細ぶり。

百閒先生は食に関して屡次「おの字」をお使いです。お膳、お酒、お精進。「おからをからと云ふ元気もない」。お酒も「呼び捨てには出来ないし、出来た義理でもない」と臈長けり。

「おの字」について向田邦子さんは思い切れず頭を悩ましていた様子で、「酒を飲む、と書けない。尻をまくる、と書きづらいのである」「私は気弱く『お酒』『お尻』とおの字を書き加える」と揺れる心境を著しています。

言葉は難しい。減量、減食もまたしかり。からだに付いた贅肉は落ち難い。だんなのカラ記事にはオチが無い。お粗末ですが、お終いです。